“何もしない”と“何もする事がない”とは大いに違う。
この頃、ぼんやりと時を過ごす時間が増えた。どうやら、心身ともに“何もしないこと”を受け入れ始めたようだ。

例えて言えば、TVを観るではなく、ぼんやりとソファの上に寝転ぶ。
この “ぼんやり”が、心に体にとへばり着いたストレスを剥ぎ取ってくれる。
だが、この寝転びが家人にはだらしないと見えるらしく、この大切な “ぼんやり”が中断されることが頻発する。

家人が、この“ぼんやり”の効用をわかってはくれる筈はない。
やがて分かる日が来るのだがと、心の中で少し愚痴ってみるが、あらがっても口も体力も敵わない相手。
そこは素直に従い、ソファから“どっこいしょ”の掛け声を借りて体を剥がし、近くの公園に逃げ出し程よい日陰を見つけ中断していた寝転がりを、芝生の上で再開する。

誰にも邪魔さることなく、木々の生い茂る緑の葉群をぼんやりと眺め、妄想の翼を思い切り広げる。
そうした日を重ねる内にやがて、体の中の“滞っていた血“が身体中巡り出し、脳内の「セロトニン」も程よく分泌し始め、体も脳も目覚める。
そうなれば、もうしめたもの。
早速、酒と行きたいところだが、引退した身とは言え流石に昼間からは身が引ける。夕日の沈むまで我慢し、いつものカウンター席で冗談を、顔見知りの客と一緒になって女将に飛ばす賑やかな夜を過す。


そうした夜を重ねる内に、「セロトニン」が体内にさらに充満し始める。そうなれば、いよいよ次のステイジに進む時である。
車を引っ張り出し家人に旅に出る旨を告げるのである。

当然、家人に“無謀と”止められる。
その折は、旅がどれほどに“老人のボケ防止、心身の健常に大いに役立つ”かを 、歳を重ねごとに身につけてきた悪知恵を、こことばかりに総動員し家人を説き伏せる。
それでも叶わない時には、泣き落とし恫喝すらも武器とし、兎にも角にも旅に出るのである。
同胞たちよ!
加齢による脳神経細胞の減少は必然ごとと諦めず、かよう左様に徹底的に抗うのである。

「何もしない幸せ」とは、オランダ語で「ニクセン(Niksen)」と言う。
これは、現役者が予定や義務感から解放されてリラックスすることを勧める言葉とか。
この「ニクセン(Niksen)」が日々の常態となるのが、老いたと言う事なのである。
家人がいかに嫌おうとも、我ら老いたる者たちは “とき”“ところ”構わず寝転を日常化させる。
このだらしなさこそが、我ら老いたるもの自律神経を整え血の巡りを良くし免疫力さえ高め、脳や身体の衰えをゆるやかにしてくれる。

我が同胞たち!
残され日々を大いにだらしなく過ごそうではないか。
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